写真と文 須磨 光
或る経済学者が会社には三種類の人種が必要といっていた。実務家と、イヤな奴と、そしてドリーマーである。成る程と妙に感心した覚えがある。会社を家庭に置き換えても同様のことがいえるのではないか。家計を支える経済力と実務能力がリーダーには必要だが、それだけでは家族の尊敬を十分に得ることは難しい。有能な実務家であると同時にドリーマーであり続けることが必要なのだ。
さて、写真の男性であるが、今から四半世紀も前のこと、パキスタンを旅したときに出会ったラホールにある安宿のオヤジである。確か一泊素泊まりで百円程度だったと記憶している。ある日、早稲田大学探検部の二人が、宿のオヤジに紹介されたといって、ドアをノックしてやってきた。仲間の一人が四十度を超す高熱を出して苦しんでいるから同胞のよしみで助けてくれというのである。
近くには大きな病院が二つある。一つは英国に留学していたという民間の開業医で、すぐに診てもらえるが千米ドル必要、もう一つは公営病院で診察料はタダだが、中々診て貰うこと自体難しい。公営病院の入口は大勢のもがき苦しむ患者で溢れかえっていた。順番待ちの患者を制するために銃を構えた門番が立っている。
外国人ということで優先的に入れてもらえたが、より重症と思われる患者を残して診て貰ったことに、今も心が痛む。
宿のロビーでは夜になると旅行者がガンジャを吸いながら雑談や瞑想を始める。現実を逃避して夢見る時間の始まりだ。
ある日、宿のオヤジがヘロインを射っているのを目撃した。己の血反吐を眺めながら彼はどんな夢を見ていたのであろうか。
インドでは、やはり日常的にサリーを着た女性が多い。大きな瞳と、彫りの深い顔立ち、柔らかく風に舞うサリーは、羽衣のような気品ある優雅さを持っている。若い頃の魅力的なスタイルが結婚した途端に崩れていくのは根強く残るカースト制度に起因している。
掃除など家事を担当する階層があり、主婦は労働が制限されてしまうため、どうしても肥満傾向に陥りやすい。着ている衣装で、カーストの階層も知れてしまうのだ。アグラの町でオーダーメイドで作ったクルタを着て、チャイを飲む。
素焼きの入れ物はそれぞれに形が歪で味わいがあるのだが、飲み終えると道端に叩きつけて割ってしまう。「勿体ない」というと「壊さなければ、器を作ってる者の職を奪うことになるじゃないか」と、隣でチャイをすするインド人に諭された。
ヒンドゥ教の聖地であるヴァラナシを流れるガンジス河は、日の出から沐浴をする信者達で溢れている。
老若男女がガンガに身を浸し、口を注ぎ、身体を清め、解脱を祈る。
病死した者や子供は、魂が汚れたとして火葬することが許されない。
沐浴している横を水葬された遺体がゆっくりと流れていく。
野良犬が川岸に流れ着いた死体を貪り食っている。
インドでの契約事に、曖昧は許されない。
「いくら?」と聞くと、決まって「友達じゃないか」と笑って答える。
曖昧にしていると法外な料金を請求されて、後で泣きを見ることになる。束の間の友情の対価は高くつくのだ。
ガンジス河の真ん中で舟代の値上げを要求してきた。ボートを漕ぐ手を止めて、こう尋ねてくる。
「お前は、泳ぎは得意か?」
インドではカラテやジュードーは神秘性を持って迎えられる。
「ボートを漕ぐのは得意だから心配するな。
ところで、お前は泳ぎは得意か?」